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【世事関心】  ニクソン家と毛沢東の赤い絆・パート2

2011年02月27日

【新唐人日本2011年2月28日付ニュース】

【司会者】一般の米国人にとってニクソン元大統領の退陣は、公の場から姿が消え、影響力の消失を意味しました。一方中国政府の見方は違いました。共産党に自由世界への扉を開いた指導者と彼の残したニクソン基金の影響力がこれで失われるのを望みませんでした。

 
2009年2月、 “僑報”の報道によると、ニクソン基金のクリス・エルフトマン(Kris Elftmann)代表が北京で、中国人民対外友好協会の李小林会長と会見し、ニクソン図書館の中国支部の設立を話し合いました。外国の図書館が中国で支部を設立するのは、ニクソン図書館が初めてです。
 
このほか、2008年1月30日、中国国務院は短いニュースを発表。1月22日の午前、国務院・新聞弁公室の銭小芊副主任が訪中したニクソン図書館と基金会の代表一行と対面。民間交流の推進や報道の協力について意見を交換しました。
 
ここから、ニクソン基金のこの北京訪問は、中国人民対外友好協会との単なる民間交流とは違うことが透けて見えます。
 
新唐人テレビ記者 萧茗
国務院・新聞弁公室の職務は、海外報道の指導と協調です。共産党の宣伝機関が米国の民間基金と報道で協力するのは、おかしなことです。しかし次の件から示すように、決して誇張ではありません。ではいわゆる“報道面での協力”とは、一体何なのでしょうか。
 
2008年6月10日、ピンポン外交の記念イベントがニクソン図書館で開催。1971年に、北京で卓球を通じた米中外交が行われました。ですからこの活動は、北京がオリンピック前にアメリカで行った対外宣伝活動と見られます。
 
このイベントには、当時の主役も登場し、オリンピックの宣伝を盛り上げたほか、中国人民対外友好協会とロサンゼルスにある中国総領事館もこの全過程に直接関わりました。しかも案の定、大陸メディアはこれを大々的に報道しました。
 
2008年9月15日、北京オリンピックが終わってまもなく、中国の王岐山(おうきざん)副首相が訪米し、第19回米中合同商業貿易委員会(JCCT)に出席。これは首脳レベルが出席して具体的な問題を解決するほか、実行に責任を持つ枠組みです。米中双方にとって極めて大切な役を演じますが、第19回の協議の場所は、ニクソン図書館が選ばれました。
 
2009年1月1日、米中国交成立から30年を迎(むか)えました。1月12日、米中国交30周年記念の写真展が北京で開催。アメリカの最初の展覧地は、やはりニクソン図書館でした。
 
イベントの中国側の主催者は、民間組織の名を掲げた中国人民対外友好協会。その一方、アメリカ側の共同主催者は、はたしてニクソン基金会でした。
 
2008年6月“ニクソン基金”
ジョンソン・タイラー代表 中国で受けた取材
 
泛美投資集団・副主席 評論家 草庵居士
中国人民対外友好協会は名義上民間組織ですが、実際は 内部には党委員会や党支部があり、共産党に制御された機関です。これは50年代に設立され、外交部(外務省)に属する
組織です。現在の友好協会の会長は、陳昊蘇、陳毅元外相の息子です。副会長は、元国家主席の李先念の娘、李小林です。民間の外交においては、重要な役目を果たします。例えば中国当局が言えないことを受け入れられない問題のときは、彼らを通じて接触します。例えば中国の対韓外交国交、中国と北朝鮮は同盟国なので、中韓は 直接接触しづらいです。だから中国は友好協会に対して、寝返り工作を行い、同時に水面下で韓国との外交を結び、協定を結びます。あとは外交部に任せます。
 
“中国人民対外友好協会”会長
陳毅氏の子 陳昊蘇
“中国人民対外友好協会”副会長
李先念・元国家主席の娘 李小林
 
ニクソン家と北京の間の頻繁な往来は、ニクソン大統領の辞職後に始まったといえます。
 
1975年12月、当時のフォード大統領が訪中してまもなく、毛沢東はニクソン氏の娘、ジュリーさん夫婦を中国に招待。ジュリーさんの夫、デービッド氏は、毛沢東に対し、今アメリカでは義父に反対する声がやまず、裁判で訴えるとの声もあると訴えると、毛沢東は、ではすぐにニクソン氏を中国に呼ぼうと応えました。とりわけ、“すぐに”の言葉を強調したそうです。
 
1975年12月 フォード米大統領が訪中
香港“文匯報”2009年8月28日の報道
デービッド
 
1976年2月、ニクソン氏は4年ぶりに、再び中国を訪問。すでに大統領職を辞(じ)して、一般人の身分で来たものの、中国側は大統領時と同じ国賓クラスの待遇でもてなしました。
 
毛沢東とニクソン。病が深刻になっていた中国の指導者と、名声が地に落ちた元大統領。2人は再会を喜び、感慨に浸(ひた)りました。
 
新唐人テレビ局・評論家 文昭氏
辞職に追い込まれたニクソン氏を毛沢東は、大統領並みの待遇でニクソン氏を招待しました。ニクソン家の北京に対して、特別な感情を持つのです。毛沢東が死亡した当日、ニクソン氏は声明の中で、毛沢東を高く評価し、非凡な勇気ぶれない思想など。ニクソン氏の陳列品において毛沢東作品が突出しているのは、特殊な思い入れがあるのでしょう。ただ 、この思い入れにも政治的な意味合いがあります。ニクソン家はウォーターゲート事件の
呪縛を逃れられません。数十年来、復活を試みてきました。だから公共の活動において
動きが活発です。北京もニクソン家の影響力を利用し。米国・米国民に影響を与えようとします。ニクソン家も北京との特殊な関係を利用し、米政界での存在感を増したいのです。
 
ニクソン家は官民(かんみん)どちらとも人脈(じんみゃく)が豊富です。ニクソン元大統領の一番下の弟、エドワード・ニクソン氏は企業家として活躍。ニクソン氏の娘のジュリーさんは、ニクソン基金の主な責任者で、アイゼンハワー元大統領の孫、デービッド・アイゼンハワー氏に嫁ぎました。
 
ニクソン家には、アメリカの政界に影響力をふるうルートとやり方があります。リチャード・ニクソン氏が生前設立したニクソンセンターは、アメリカの外交戦略や政策を担うシンクタンクです。在中国アメリカ大使館の二等秘書、グレーゴリー・メイ(Gregory May)氏は、外交機関に入る前、ニクソン基金とニクソンセンターに勤めていました。
 
1970年代のニクソン家と北京の関係が、ニクソン氏と毛沢東の個人的な感情であったとすると、現在、両者の関係には、実質的な内容が増えました。
 
ニクソン元大統領の弟
エドワード・ニクソン氏
 
ニクソン氏の弟、エドワード氏の中国訪問は、1983年から始まり、30回以上に及びました。2005年、エドワード氏が名誉会長を務めるエネルギー会社が、広東省の湛江(たんこう)市で投資。
 
2007年4月、エドワード氏は、河北(かほく)省の保定市(ほていし)で中国系企業と、太陽エネルギーを開発する合弁会社を設立。
 
2008年、ニクソン大統領の兄弟の孫デヴォン・ニクソン氏が上海中欧工商(ちゅうおうこうしょう)学院に留学。中国にあこがれる理由について、デヴォン氏は、ためらわずにこんなことを述べました。ニクソン家の一員として、小さい頃からアメリカにある中国大使館のイベントへ出席する機会に恵まれ、そこから中国のイメージが作られたと。
(米エモリー大学を卒業後、米国でMBA を専攻したニクソン)
 
中国に留学した目的については、将来もっと多くの国際的なビジネスに関わりたいからだと述べました。
上のリンクをクリックすると、このニュースの中国語が見られます。
 
 
 

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